冷たい距離

 吐息が白い。今朝の冷え込みはまた一段と厳しい。

 冷たい指先に早く春が来ないかと願うが、正月を過ぎてそれほど日も経っていない。自分の代謝は悪い方ではないのだが、女体の構造上なのか冷え性だと思う。熱いお茶が欲しくなる。

 それでも、早朝の清涼な空気は気持ちよい。目は覚めるし、深呼吸すると体も凛とする。さくさくと、雪を踏む足音が近付いてくる。

「おはよう、七緒。早いわね」
 開け放った窓から松本乱菊の声がする。意外な人物の声掛けに、珍しさを覚えながら挨拶を交わす。
 
「おはようございます。こんなに朝早いなんて珍しいですね」
「そうなの、参るわ。ちょっと仕事が立て込んでいてね。早々に一番隊に提出するものもあったから、こうやって散歩がてら。結構気持ちいいものね、寒いけど」
「そうですね、気が締まります。これからお茶入れようと思っていたところですが、いかがですか?」
「ん、ありがとう。でも行かなきゃ。またね」
 
 笑顔で去っていく彼女は疲れも感じさせない足取りで、自分の隊舎に戻っていく。いつも明るく、人に気を使わせない。松本の尊敬できるところであり、羨ましく思う。
 
「じゃあ、お茶はボクがもらおうかなぁ。一緒に飲もうよ」
 突然頭の方から声が降ってきたことに驚き、振り向くと京楽春水がにこりと微笑んでいた。
 
 何度もこうやって霊圧を消して近付かれるため、たまにひどく驚く。この京楽も昼ごろに出勤してくるような上司で、こんな早朝にいることが珍しい。吹雪にならなければいいが、などと思ってしまう。
 
「おはようございます。本日は随分お早いご出勤で。いかがされたのです」
「だって、早く七緒ちゃんの顔が見たかったんだもーん。可愛い可愛いボクの七緒ちゃん」
 手を取られ、甘い言葉で口説かれてもこれも日常茶飯事。ましてやこの上司は女癖が悪い。最早趣味とも言えるだろう。そんな彼の言葉にほだされることもなく、冷たく振り払うとお茶を入れた。これも日常茶飯事だ。
 
 
 熱い湯のみ茶碗を京楽と自分へと置き、向かい合ってお茶をすする。湯のみ茶碗が冷えた指先にじんと暖かい。
「毎年思うけど、冬の七緒ちゃんの指、冷たいよね。辛くない?」
「そうですね、もう慣れています。仕事を始めるまでが悴んで、なかなか動かないですけどね」
「だからこうやって湯のみで指も体も暖めてから、するわけだ」
 こくりと頷き、また一口お茶を飲む。口から喉へ、そして体へじんわり暖かくなる。始業前の小さな幸せの一時。
 
「早起きはしてみるもんだね。ボクも七緒ちゃんとこうしてお茶が飲めるわけだし、明日も早起きしようかな」
「どうせ無理でしょうね」
 苦い顔をしているが、随分と長い間この上司の副官をしているからわかるのだ。京楽の生活スタイルも、おおよその行動も。
 随分と暖まった指先が、先に空になった京楽の湯のみを片付ける。その手をつい、と引き寄せられた。また、今度はどんな悪巧みを思いついたのか、と京楽の顔を覗き込む。その表情はいつもの食えない笑顔のままだったが。
「ボクが暖めてあげるのに。お茶よりももっと暖かくしてあげるよ」
「もう、またそうやってからかって」
 
 それでも、京楽の大きな手は暖かく、放し難いぬくもりがあった。もう少し、あと少しだけ、言葉に詰まっているフリをして、繋いでいたい。
「隊長の手、なんでこんなに暖かいんですか」
「んふふ、なんでだろうね。もうちょっとこっちにおいでよ。そこじゃ寒いでしょ」
 そんなに寒くはなかったが、繋がった手をひかれて促されるまま京楽の隣に腰を下ろした。
 手のひらが熱い。柄にもなく照れてしまう。それは彼も同じなのか視線を泳がせる。こんな早朝に、隊首室で隣り合いながら手を繋ぐ。奇妙な高揚に脈が早打つ。
 無言のまましばらく繋いでいた手を放そうとすると、慌ててきゅっと強く握られた。そして指を絡ませられ、放してくれない。
「もう少し」
 
 まったく、本当に甘ったれで、仕方のない人。この手を使うのは一体私で何人目かしら?呆れつつも、放せないでいる私も相当甘い。もう少し繋いでいたいと思う自分の気持ちの正体に気付かないふりをしているけれど、いつまで持つことやら。この気持ちが堪え切れなくなり、吐露してしまった時、どうなるのだろう。
 きっと彼は笑顔でありがとう、嬉しいよと言ってはくれるだろうけれど、本気で私を見てくれるとは思えない。彼は自由な人だ。わかっている。
 この距離がお互いの精一杯の歩み寄りだろう。
 頼めば、口接けも情交もしてくれるけど、愛してはもらえないと思う。私はそんな愛はいらない。だからいつもここで、踏みとどまるのだ。
 
 
「もう、宜しいでしょう?仕事始めますよ」
「ええ~、もう少し」
「隊長はまだ、くつろいでいらして構いません。ただこの手を放して頂かないと、私が仕事出来ないんです」
 ゆっくりと引いてゆく熱が、胸に小さく痛みを生む。それでも、私にはここまでだ。それでもう十分。
 
 
「また、指冷えたらいつでも言って。ボクに暖めさせてよ」
「考えておきます」
 湯のみを片付けている背中に感じる視線の意味など知りたくない。知ってしまえば止まらなくなりそう。できるだけ、自分と彼の気を流せ。私が私でいられるように。
 
 私が私でいるために。                       
 
 <終>