櫛(くし)
 
黒地に金と朱の繊細な飾りの櫛が、夜一のお気に入りだった。
大分年季の入ったものだったが、よほど大切にしてきたのだろう、色のくすみもいたみもほとんど目には見えなかった。
夜一は時折、それを飾り箱から出して眺めては、髪を梳く事も無くまたしまう。
浦原商店を訪ねていた朽木ルキアが、偶然その櫛を愛でる夜一を見た。
うっとりと愛しむようなその表情は口元が綻んでおり、ほんのりと初恋の相手を思う少女のようだった。
瞬神の意外な一面を見て、よほど大切な方の贈り物なのだろうと思った。
ルキアに気付いた夜一が、その微笑のままそのくしが贈られたものであることを明かす。心の声が聞こえたのかと少々驚いてしまった。
「これは、実はそんなに値の張るものではないのじゃ。しかも大分古い物での、贈られた時はその価値など知りもせなんだ」
価値があるのに、値は張らないとは不思議な話だと思った。
「年月が経って、付加価値がついたのですか・・・?では今は結構なお値段なのでしょう」
夜一は半楕円形の上弦を撫でるように指先を滑らせる。その視線は、櫛を優しく見つめていた。
「ふふ。ただ、儂にとって価値があるというだけの話よ。贈った本人はもうとっくに忘れているだろうがの。覚えておっても、儂がまだ持っていることを知られるのは照れくさい」
そうか。値段ではないのだ。それは夜一にとって価値あるものなのだ。飾り箱にしまうほどの大切な物。
 
夜一が優しい口調で、ルキアにぽつりぽつりと話し始めた。
「これは昔、ある男にもらったものでの、儂の誕生日に何か贈り物を、と必至に金を貯めて買うてくれたものなのじゃ。しかしの、儂はその頃、金銀・宝石など豪奢な物に囲まれて過ごしておったから、これがとても地味で味気なく思うておった」
「・・・贈られた方にそう述べられたのですか?」
「うむ。それでも、それがそやつの精一杯の気持ちであった事も知っておるから、憎まれ口を叩きながらそれでも受け取ったのじゃ」
「相手の方は気落ちされたのでは・・・?」
夜一は櫛からようやく視線をルキアに移した。過ぎた推測に怒りを買ったか、と姿勢を正したが、夜一の顔は至極穏やかだった。
「そうじゃの・・・、儂の知らぬところで気落ちしておったかも知れんの・・・。無知な娘時代の事とはいえ、酷な事をしたものじゃ」
それでも今も、夜一はその櫛を後生大事に持っている。そのことを知れば相手もきっと喜ぶことだろう。
「朽木サーン、ご注文の品こちらで間違いないっスか?・・・あ、お話中でしたか」
「よいのじゃ、つまらぬ昔話につき合わせておったのじゃ。で、その品に間違いはないのか?」
そういうと、夜一はその櫛を喜助に見られないようにさっと飾り箱にしまい、鍵をかけた。
「え、あ、はい・・・。確かにこれで間違いない。代金はこれで・・・」
「毎度有難うございます~。で、昔話って、その飾り箱の中身の話っスか?」
「あぁ、まぁな。しかし、おぬしには見せん」
退室をさりげなく促しても、喜助は箱の中身を知りたがった。彼はその櫛のことを知らないのだ。
「いいじゃないスか、アタシにも見せて下さいよぅ!」
「ダメじゃ。おぬしには見せぬ。ルキアもこれは内密ぞ!よいな」
「・・・は、ぁ・・・」
 
帰途に着きながら、ルキアはあの櫛の贈り主が気になった。夜一と浦原が旧知の仲であり、親しいことも知っていたが、どうやらその浦原にも秘密のようだし、贈り主に見当など付くはずもなかった。
しかし、あの櫛を眺める幸せそうな夜一の表情だけは、頭から離れる事はなかった。
「きっと楽しい思い出がおありなのだろうな」
ルキアはそれ以上の詮索をすることはなかった。
「・・・あ!つりを忘れた・・・!」
 
一方、喜助は以前からずっと気にしている箱の中身が知りたくてたまらなかった。しかし、その箱に触れると、夜一はカンカンに怒るのだ。中身をそれとなく聞いても流されてしまい、ついにそれを聞き出すことは出来なかった。
「どうしてアタシには秘密なんでしょ・・・ちぇ、ずるいなぁ」
「そうひがむでない。本当に何てことはないものなのじゃ。ただ、儂の思い出が詰まっておるだけよ」
「それが気になるんスよ!まさか、他の男からの贈り物じゃないでしょうね・・・?」
「やれやれ、疑り深いのう・・・何度違うと言えば・・・」
店の戸がガラリと開いて、ルキアがつり銭をもらうのを忘れた、と戻ってきた。
「あーはいはい、アタシもすっかり忘れてましたよ・・・。もう、そこのレジに入ってますんで勝手に取っていってくださいよ・・・」
「おまえしか開け方知らんだろう!不精しないでさっさと渡せ!」
ルキアに恫喝されながらも、すっかりいじけてしまった喜助の背中を見て、夜一は微笑んだ。
ルキアの横目にその微笑は鮮やかな色彩となって飛び込んできた。
それは、先ほども目にした微笑。
櫛を見てうっとりと微笑む、それと同じ。
それを見たとき、ルキアはあの櫛がおそらく浦原から贈られた物だと確証した。
なぜ秘密にしているかは分からないが、その眼差しが櫛とを見るのと同じ愛おしさを込めて、この男を見ていた。
 
夜一に真偽を問うつもりは無かった。問うても、答えをはぐらかされるだけだろう。これは彼女の大切な思い出。そう、彼女だけの物なのだ。
 
つりをもらって、小さな商店を後にしたルキアは夕闇の空を仰いだ。
そこには、夜一の笑った目のような優しく光る三日月があった。
<終>
 
まぼろしさん、1万Hitおめでとうございます!!お祝いSS捧げます!