遥か昔から、この蒼空は変わらず天にあり、この大地は草木を抱き締めてここにある。
森羅万象、刹那刹那の事象をも飲みこんで、時は平等に過ぎている。
白い真綿の雲が浮かぶ青い虚空に、過ぎ行く風は穏やかで、茂ゆる木々は優しくさざめく。若い緑葉は光を反射して、水面にも綺羅綺羅と煌きが舞っている。
鳥の鳴く声、風の囁き、川のせせらぎ。
新緑の香、春花の甘み、土埃。
五感に感じるは、素晴らしき生命の喜び。
この景を見せてあげたい人は、春の景観に顔を綻ばせて喜ぶだろう。
春の風よ、このふんわりと膨らんだ気持ちをあの人にそっと届けておくれ。
暖かい日差しに、顔を出し始めた虫たちに生きる力を与えておくれ。
そして、僅かにでもその朝露が残っているのなら、どうか私にも勇気を分けておくれ。
春陽に誘われて日々腫れあがる恋心を、どうか温和な君に。
「御加減は如何ですか?浮竹隊長」
十三番隊隊舎の離れにある、雨乾堂に静かに入室したのは四番隊隊長卯ノ花烈だった。
部屋の主は床に伏せたまま、隣に腰掛けた女性を見遣る
「おぉ、卯ノ花。今日は大分、調子が良いよ」
それはようございました、と言って診察を始める彼女は、いつもの様に慈愛に満ちた優しい容貌を見せてくれる。白く温かい手で脈を取られ、幾つかの問診をする。その間に取りとめない話をして、終わり。
部下が持ってきたお茶を二人でゆっくりと飲みながら、やっぱり取りとめない話をして、少し笑って、今日の診察が終わる。
それでは、と腰を上げる優しい女性に、気の利いた言葉一つなく、ああとだけ答える。
今日の楽しみが終わってしまう。
折角、外から春の陽気が漂うのに、いつまでも自分はここに居る。
「卯ノ花!」
つい、呼び止めてしまった。咄嗟の事に、己が戸惑う。彼女も驚いたような表情を見せたが、やがてまた元の柔和な微笑みに戻る。言葉を待っている。
「…春だな」
そんな事しか言えない自分に内心恥じ入る。もっと側に居て欲しい、その一言が言えない。春風は彼女に囁かない。
見上げた彼女は白い肌と薔薇色の唇を光に透かし、儚い美しさを醸し出す。
「はい、暖かくなってきましたね」
黒曜石の瞳は優しく細められて、こちらに向けられる。
高鳴る胸が苦しくて、二の句が次げない。
君が…。
「あー、卯ノ花隊長、もう帰られるんですか?もうちょっとゆっくりして行って下さいよ!美味しいお茶うけがあるので、今持ってきますから」
海燕の声が廊下に響く。
「まぁ。でも、浮竹隊長の安静のお邪魔になりますから…」
「そんなことないぞ!」
海燕より先に、力強く答えてしまったものだから、彼女はまた驚いた顔をした。そして頬を綻ばせてくすくすと笑った。海燕も笑いながら、お茶を淹れに下がっていく足音がする。
開け放たれた障子の向こうで、あんまりに可愛らしく笑うものだから、自分の失態に気付くのも遅れてしまった。気付いたとしても、取り戻せるものではないけれど。
幾分、朱に染まった顔をしているだろう。けれど、調子は良いのだ。彼女は薬になり得ても、安静の妨げになんてなる訳がない。
「…もう少し、ゆっくりして行ってくれ。卯ノ花」
春風が火照った体をすり抜けた。
彼女はそっと元の位置に腰掛けると、徐に額に手を充ててきた。
触れる指先の心地良い温度に、瞳が知らずに閉じる。
開放された障子に射し込む陽光に、静かに流れる時を楽しむ。
さっきまで土のにおいしかしなかったのに、今鼻先を漂うのは木蓮の清々しい香。
うっとりと感じ入っていたら、そのままゆっくりと前髪をかき上げられた。
何と思った途端、彼女の額がこつんと当てられた。
至近距離で覗き込まれる瞳、鼻先も吐息も全てが近い。
木蓮の香が溢れた。
頭の中が光で真っ白になる。
「本当に、御加減は悪くないですか?」
「…あ、あぁ!」
お熱は無い様ですね、とすっと遠ざかった小さな顔に、未だに心臓が高鳴っている。
「では少しだけ、ここにいても宜しいですか?」
微笑んでいる顔にはにかむような花が咲く。
勿論、と言ってその微笑に見蕩れる。
麗らかな小春日和、隣には清廉な白い花。
「木蓮の香は君のか。良いにおいだな。とても良く似合っている」
今度は彼女の顔がほんのり赤く色付いたように見えたけど、それは自分の色眼鏡だろうか?お茶うけを持ってきてくれた海燕を手伝おうと顔を逸らされてしまって、分からない。
まぁ、いいか。
今はそこに咲く花を、静かに眺めよう。
できるだけ、長くここに留めたいのだ。
「はい、どうぞ。浮竹隊長の分です」
「ああ、すまない」
手渡された茶碗を受け取ろうとして、触れた指先。
「あっ…」
先に声を上げたのはどちらか。
弾かれたように二人して手を引いたものだから、茶碗が落ちて布団に広がる波。
「あぁもー、二人して何やってんスか。しょうがないなぁ、ちょっと拭いておいてください。淹れ直してきます」
海燕が茶碗を拾い上げて、また汲みに行く。