風邪

 

「まったく、ろくに食いもせずぶっ通しで研究するなと、何度言えばわかるのじゃ」
四楓院家の小さな一室で布団に包まりながら、熱で潤ませた瞳と、頬を朱色に紅潮させた喜助が横たわっていた。要は風邪を引いたのだ。
「…だって、栄養剤飲んでたから…大丈夫かと思って」
「だってじゃないわ、このばか者!栄養剤だけで何日過ごしとったんじゃ?えぇ?」
今にも拳が飛んでくるかと思うほどの形相と、ぴりぴりと肌を刺す霊圧で夜一がどれほど怒っているかを知らせる。もう何度も同じことをして怒られているのだ。
…懲りない自分の情けなさは分かるのだが、こうして倒れてしまったらもう何を言っても後の祭りでしかない。
「…スイマセン…」
布団に顔半分を隠して、上目遣いで小さく謝る。まるで子供のようだ。
「最近ろくに顔を見せぬと思うたら、案の定この様じゃ」
大きく溜息を付き、夜一の小ぶりな手が喜助の額にそっと触れた。掌で熱の度合いを測る。
ああ、まだ大分熱がある。
上がった体温に夜一の手が冷たかったせいか、喜助は気持ち良さそうに瞳を閉じてその感触に浸る。
 
「…何か食えるか?」
「あんまり、食欲ないっス…」
「桃はどうじゃ?少しでも食え。早く良くなりたかろう」
早く良くなりたいけど、それでも喜助はあまり食べる気がしなかった。でも喉はカラカラで。
「何か飲み物なら…」
「そうか、では桃をすってこよう。待っておれ」
すっと立ち上がり、部屋を出て行くとしんと部屋が静まった。なんだか室内の色もモノクロに褪せたかのように感じてしまう。キラキラと輝くのはいつだって彼女だ。
手が届きそうな距離で、本当はずっと遠い。
金色の瞳が楽しげに揺らいでいるだけで、自分も楽しくなる。
触れられると、胸が躍って全身の血流がすごい勢いで駆け巡り、全神経が彼女へ向く。
一緒に鍛錬するのは少しでも彼女より強くなりたい気持ちと、その間彼女を独り占めできるから。
研究に没頭するのは、手に入れられない境遇を少しでも忘れたいため。
それでこうやって倒れるのはわざとじゃない。だけど、倒れたら彼女が看病してくれるのを心のどこかで期待しているのだ。
怒っていても彼女の瞳は優しく揺れて、じっと自分だけを見てくれる。
 
 
 
夜一は喜助本人や周囲の従者にも風邪がうつるといけないから、といつでも看病を止められていたのだが、頑として聞かなかった。小さい頃から喜助が風邪を引くと、その傍らにいて『不摂生のせいだ』とか『ちゃんと寝ないからだ』と文句をいいつつ何かと世話を焼いた。
「ほれ、持って来たぞ。座れるか?」
「…あぁ…ハイ…」
ぼーっとする頭で曖昧な返事を返す。その頬は先ほどより更に紅い。
「熱が上がってきたようじゃな。これを飲んでからしっかり眠るがよい。さ、ゆっくり飲め」
掌大の小さな椀にとろとろに擂った桃が入っている。甘く馨しい匂いも今はあまりそそらない。それでも夜一の好意を無にしないように喜助は口を付けた。
濃厚な甘味が喉を潤していく。体がその糖分と水分を栄養に変えようと、飲んだそばから奪い取られるような錯覚すら覚える。
空になった椀を夜一に返すと、消え入りそうな声で礼を告げて、またもそもそと布団に沈んだ。
とろんとした瞳に上気した白い肌。言葉もなくなり、数分もたたないうちに眠りへと落ちていった。
 
夜一は喜助の額の汗を冷たい手ぬぐいで拭ってやると、そっと熱い頬に手を沿わせた。
幼い頃の丸みと弾力のある肌は、いつしか精悍な顔つきへと変わった。同じ位だった身長も随分と差が開き、ほぼ毎日耳にしていた声もいつの間にか低くなっていた。
自分だけが何も変わらないような、取り残された気分。
しかし膨らむ胸や腰周りに付く肉は確実に自分の性別を意識させる。
そして眠る喜助の顔を見ていると、幸せなような切ないような、嬉しいような苦しいような説明が付かない感情に支配される。
胸の奥、心臓の真ん中を圧迫されているような息苦しさと、にやけたままの頬とが複雑に混ざり合ったまま近年ずっと燻り続けている。
それでも何を告げるわけでもなく、季節は巡るのだ。
喜助は自分の事をどう思っているのだろう。ただの幼馴染だけでは寂しい。でもそれ以上の何があるのかも分からない。
ただ、一緒に居たかった。
 
ずっと眺めていても飽きない寝顔。そのまま半刻が過ぎる頃、椀を下げようと立ち上がると喜助の瞼がうっすら開いた。
「ん…起こしたか?」
「…夜一サン…、…」
空気に消えるような呟きに、夜一は喜助に向かって屈んだ。
「何、なんと言うた?」
喜助の口元にかぶさっている布団を少しどけようと手を伸ばす。
指先が頬に微かに触れた、その瞬間だった。喜助の熱い掌が夜一のそれを掴んだ。
「!」
「ここに、居て…」
縋る様な捨て置けない瞳が一直線に胸を射抜く。
熱がうつったのかと思うほど、一瞬のうちに頬が火照った。
言葉に詰まっている間に、喜助の手の力がするりと抜ける。また眠りに落ちたようだ。
ドクン…ドクン…。
繰り返す脈動は深く、早い。
この気持ちを、何と言ったらいいのだろう。
芽吹いた気持ちは勢いを増して、心を支配していく。
もう一度触れたい。その熱を感じたい。忍ばすように指先を重ねるだけの思いの伝心。
喜助の指先も包むように夜一の指にわずかに絡んだ。
つたない触合い。
だけどもう一時、互いを独占していたい。
                             <終>
 
 
まだ片思い同士のときの話。夜一サンは看病なんてしないと思いつつも、看病させてみました。お互い片思い一方通行ってのもいいですねぇ。