もしもボクの生まれがもっとアナタに近くて、誰の目も気にせずいられたなら、アナタはボクを好いてくれたかな。
きっとボクはアナタに有無を言わさず、どんな手を使ってでも振り向かせようとしただろうな。
ボク達の障害は、身分の差だけじゃない。背負う物の重さや、周りの環境。全てが違う。
長く一緒に居ることで、ボクはアナタの持ち物を自分の物と勘違いしていたんだ。
一番近くて手の届くところに居るアナタが、本当はこの世で一番遠かったんだ。
障害は沢山あるけど、一番の難点はアナタがボクのこと好きじゃないってこと。
だから諦めなきゃいけない。こんなにもアナタのことを好きなのに。
それでも、アナタの笑っている顔が見たい。
隣には居られなくても、見守れる場所に居たい。
諦めきれない往生際の悪さがボクを蝕む。
抱き寄せたくてたまらない指先は、こんなにもアナタを求めて彷徨うのに。
「恋」後編
抱き寄せたまま無言で時を過ごす。雨はまだ止まない。
ボクの胸元に寄せた小さな頭。高鳴った心臓の音が聞こえるんじゃないかと怖れた。
それでもこの手を緩められなかった。
このまま攫ってしまいたい。どこかへ。どこか遠くへ。
誰も追って来られない、地の果てへ。
思わず腕に力が籠もってしまった。それでも夜一サンは嫌がらず、その細い腕を冷たく濡れたボクの死覇装の背に回した。
(冷たいだろうにな…)
それでも気遣う言葉一つ、口から出てきやしなかった。
嫌じゃないなら、少しは期待していいの?これはボクのエゴ?
夜一サンを心配している振りをして、本当は会いたかっただけだ。
こうして腕を解けないのだって、今この時だけでも独占していたいだけなんだ。
分かってる。アナタはただ具合が悪いだけなんでしょ。でもそれでもいい。触れていたい。
あぁ、無情な雨は勢いを落として間も無く上がる。
何も言えない。何か言おうものなら、ボクはもう自分の気持ちを隠しきれない。
水溜りを避けながら、昔のように手を引いて屋敷へ送った。
何も言わない夜一サン。何も言えないボク。繋いだ手だけがボク達の唯一の繋がり。
真夜中の月明かり。屋敷の門前では、主の帰りを待っていた従者が待ち構えていた。
屋敷の大きさや、丁重に扱われる様を見て、やはりボクとは身分が違うのだと思い知らされる。ボクには何もない。地位も、権力も、アナタからの愛情も。
逃避行にもなれない、小さな触れ合いは終わりを告げた。
「途中でやはり具合が悪くなってしまっての。喜助には迷惑かけた」
そうでしたか、と従者は暖かい毛布で彼女を包んでいく。
「済まなかったの」
夜一サンの顔は綺麗に笑って見せている。でもそれが泣きそうな顔に見えた。
「いいえ…」
いつもは覇気のある背中が小さく見えた。その背中はどんどん遠ざかり、門はゆっくりと閉じた。アナタが元気ない理由がボクのせいならいいのに。
いつもは強気で快活なアナタが、ボクを想って泣いてくれればいいのに。
そこから自分の部屋にどうやって帰ったか分からない。ひどく虚ろだったことだけは覚えている。
それからまたしばらく会えない日々が続いた。
これでいい。これがいつか普通になる日が来る。この胸の苦しさも、無意識にアナタの霊圧を探るくせも、きっとじきになくなる。
「喜助さん、次の非番の日はどこかに出掛けましょうか?私、お弁当作るわ。…喜助さん?」
「え、あぁ。そうっスね、どこか出掛け…。あ、駄目だ。ボク研究があるんでした」
「もう、また研究ですか?最近ずっと研究ばかりですのね」
「すみません。でもこの研究が一段落したら、もう少し落ち着きますから」
「そう、それは良かったわ!研究熱心な喜助さんも大好きです。頑張って下さいね」
そう言って満面の笑顔を見せた恋人が、夜一サンに見えた。全然違う顔なのに。
今隣にいる女性はこんなに愛らしいのに、どうして口接けたいと思えないのだろう。触れたいと思えないのだろう。
どうして、一緒に居ないのにアナタを思い出してしまうんだろう。
芽吹きだした桜。それなのに、ボクの心は晴れない。
離れれば離れるほど、深く募る思い。
研究に逃げ込むボクを嘲笑うかのような、青空。
ボクから距離を置いておきながら、手前勝手なのは重々承知だ。駄目だと分かっている。
それでも――――…会いたい。
桜が八重咲きになる頃、今年も花見の宴が催された。
彼女はやはり中央に座し、桜に彩られた風景の中、幻のような美しさを纏っていた。
最近誰もが噂している。
夜一サンが艶を増しただの、色気が出ただの。……想い人が出来ただの。
いつかは、そんな日が来ると思っていた。
けれど千切れそうな胸の痛みは、噂を認めたくない。
凶暴なエゴが幾重にも張ったはずの虚勢を引っ掻き回す。
…どうしてボクじゃ、駄目なんスか?
宴が終わりを告げて、場が掃ける。
周りに誰も居なくなった。
それでもボクは夜空の下、少しの肌寒さを覚えながら、紅と仄白い桜が舞うのを見ていた。
しんとした空気。傾ける杯。その水鏡に夜一サンの姿が映った。
振り向くと、そこには焦がれた人が立っていた。
「もう、皆引けたぞ。飲み足りぬなら、他の連中の跡を追えばまだ間に合うぞ」
彼女は寂しそうな微笑を浮かべていた。いつからアナタは、そんな悲しそうな顔で笑うようになってしまったの。
「…いえ、ボクは此処でいいっス」
「そうか。邪魔したの…」
引き返そうとしたその腕を咄嗟に掴んだのは、もう無意識下だった。
驚いたのはきっとボクよりアナタ。
「…少し、一緒に見ませんか。桜」
腕を引いて、隣に座らせる。
「…うむ…」
押し殺したはずの胸の痛みが切なさを伴って蘇る。
少し前のように、ボクの隣にはアナタが居る。
それだけで、いい。
…それだけでいいはずだった。彼女の顔を見るまでは。
金色の満月のような瞳から涙が一筋流れていた。
「喜助…、儂らはどこで違えたのか…?儂は隣におぬしが居れば何も、何もいらぬのに」
まだ掴んでいた腕から、ボクの手が滑り落ちた。
アナタの涙は月の灯りに照らされて、キラキラと宝石のように輝く。
「気付くと、儂の隣におぬしは居らぬ。それがどれほど苦しいか、おぬしに分かるか?」
ボクを思って胸を痛めてくれたの?
涙に肩を震わせ、ボクを必要と言っている。
「もう一緒に居られないなら、おぬしを忘れる薬を作ってくれ。この胸の苦しみを消す薬を、儂にくれ」
嗚呼、もうダメだ。息が出来ない。心臓がひどい速さで脈打つ。
同じ苦しみなら、アナタを奪って死のう。
獄門にでも、処刑でも何でも好きにすればいい。
一度でもアナタが手に入るのなら、喜んで死ぬよ。
「ボクを忘れるなんて、させない。アナタの幸せを願って、聞き分けのイイ振りをしてきたのにアナタはどうして、どうしてっ…!」
激情が走った。後のことを考える余裕なんてない。
杯を投げ捨て、両腕で体を引き寄せると、アナタの甘い香り。
ボクを見て。
驚いて上向いた顔に夢中で口接ける。
口唇が、吐息をも奪って深く重ねる。
袖を掴んでわなないていた彼女の指先が、そっとボクの首に回された。
幾重にも交わされる口接け。
想いの丈を込めて、深く、浅く。優しく、きつく吸う。
やっぱりアナタじゃなきゃダメなんだ。
アナタでしか燃えない。アナタ以外欲しくない。
「……喜助……もっと…」
アナタの甘い声はボクの脳髄を溶かして、ダメにして、それでもボクはとても満足だ。
ボクはアナタを奪うことに決めた。
アナタがボクを選んでくれたのなら、もう迷いはない!
「ねぇ夜一サン、将来アナタを攫ってもいい?」
うっとりと潤んだ瞳は瞬いて、嬉しそうに頬を染めて笑った。
「おぬしになら、今すぐにでも!」
見つめ合って、くすくす笑い合って、そしてまた口唇を重ねた。
何度も何度も柔い唇を吸う。
夜が白々と明け始めるまで隙間を憎むように寄り添って、抱き合って。
「おぬしは儂のものじゃ。もう誰にも渡さん」
「じゃあ夜一サン、ずっとボクのそばに居て下さい。どれだけ月日が流れても、ずっと」
桜が舞い散る中、ボクらは誓いをたてるようにゆっくり瞳を閉じて、口接けを交わした。
白く消えそうな月だけが、それを見ていた。
<終>