それは寝耳に水だった。突然に告げられた絶望。
心に灯っていた唯一の灯火は、彼女でない者が吹き込んだ一陣の風で、あっという間に力なく掻き消されてゆく。
呆然としてピクリとも動かなくなったボクに、眼前のご老臣は重い溜息をついた。
「聞き取れなんだか。では今一度言おう。夜一様に金輪際近寄るでない。御姫様は、近々嫁がれる。今日がその見合いの日じゃ」
耳鳴りがする。こめかみの血管がジンジンと音を鳴らすように脈打つ。言葉を紡ぐご老中の声が、随分遠くに聞こえる。それは靄のかかったような、現とも朧ともつかない違和感。
「よいな、喜助。夜一様は元よりおぬしの手の届かぬ方なのじゃ。おぬしがどれほど好いていようと、四楓院の血を繋ぐ者には相応しゅうない。諦めよ」
「…夜一サンは、何と…何と仰っていましたか?」
「…忘れよ、と。その一言だけじゃ」
ドクン!
マグマの様な激昂が爪先から頭上まで急激に立ち上り、視界が赤黒く染まる。
「嘘だ!!彼女がそんなことを云うハズがない!嘘だ!嘘だ!認めない!」
「喚いても仕方なかろう。これは事実じゃ。おとなしく諦めよ。おぬしが娶れるとでも思うたか、愚か者め」
ご老臣はそれだけ告げると、紅い唐傘をさして屋敷へと踵を返した。
「待ってください!それを信じるだけの証拠は…!?」
喚いた先に、視線だけちらりとボクを見遣ると無言のまま、元来た道をゆっくりと戻っていく。
屋敷の外れにある小さな東屋は、またボク独りになった。
冬名残の冷たい雨は、愕然としているボクに矢のように降り注ぐ。
ただ氷雨が涙のように次々と頬を伝っていった。
彼女とボクが思いを通じ合ったのは、三年ほど前のことだ。
お互いに青い気持ちを告げあった時の甘酸っぱい記憶。小鳥が寄り添うように身を添わせ、太陽のようにキラキラ輝く笑顔に力をもらい、その愛らしさにたくさん口接けた。
抱き締めるとボクの胸元にすっぽり収まる身長差も、真逆の性格も、冷たい指先も全部好きだった。
ボクを叱る厳しい声も、ボクを呼ぶ甘く優しい声も、もう聴けないのか?
金色に輝く瞳が悲しげに揺れる時、そばに居てあげることも?
アナタの花のような匂いも、滑らかな皮膚の弾力も、何もかも…全部忘れなきゃいけないの?
あんなに切なそうにボクを求めてくれたのに。ボク達は二人でひとつなのに。
――――姿を見せて、アナタの声を、もう一度聴かせてよ!
それでも、なぜか激昂した気持ちの裏側で、冷静な自分が居た。
心のどこかで、いつかこんな日が来ると分かっていた。
誰の目にも明らかなほど、ボクと彼女は身分が違う。
おそらく彼女がボクを選んでくれたのも、きっと何かの間違いなんだと思う。
選ぶ相手が違うことに気付いたから、当主として嫁いで行こうとしているんだろう。
いつもボクの心の片隅に巣食っていた、真っ黒い疑念。
彼女がどんなにボクを好きと言ってくれても、それはずっと消えずにこびり付いていた。
冷えた体のままぽっかり空いた虚な気持ちは、それでも彼女の笑顔が思考を過ぎるたびに微かな期待を捨てきれずにいた。
四楓院という大家を存続させるための絶対的に必要な事項が導くのは二人を決別なのか。
あぁ、でも嫌だ。嫌なんだ。ボク以外の男に触らせたくない。
見合いをぶち壊すことが、四楓院家に恩を仇で返すことなのも十分承知だ。行くしかない。
行くしかない!
全力疾走で、離れから会談の間へ急ぐ。見合いならばきっとそこだろう。
だが走っている最中、拭いきれない不安がボクの足を止めた。
(もし彼女がボクを要らなくなったのなら…?)
恋に溺れているだけなのは、ボクだけなのではないか?
…それじゃあ、ボクの出る幕はありもしない。
彼女は当主だ。家を守る立場にある。
当然だ。簡単すぎるほど、当然な答えだった。
ボクは彼女の決断したのならそれを受け入れなければいけない。
大好きな彼女の決断だからこそ、苦しくても受け入れなきゃいけない…。
彼女のために。
膝が落ちた。地にへばりつくような格好で、髪から滴る雫が落ちる。
ボクの心は今、死んだ。
結局その見合いを壊しにも、彼女に会いに行くことも何もできなかった。
彼女から別離を告げられることが、たまらなく恐ろしかったのだ。
次に彼女に会えた日は、二番隊部隊長の定例会議だった。
定席の上座に位置し、部下を束ねる彼女は呼び声さながら女帝の威厳に溢れる。
ボクは仰ぎ見ることしかできない。彼女はボクを見ない。
会議は恙無く終わり、部隊長それぞれが自隊へと戻っていく。
振り向きたい。でも振り向けない。彼女は今、どんな顔してる?
呼び止められもせず戻った自隊で待っていたのは彼女の使いだった。
手渡された文書は簡素なもので、あの場で待つ、とだけ記されていた。
駆け出した足はもう止まらなかった。
二人の秘密基地に、彼女は居た。蹲る様に膝を抱えて。
ボクの気配にも動かない。
「夜一サン…」
呼んでもすぐに返事は無かった。沈黙が二人の間を重くする。彼女に背を合わせるように座り込むと、しばらくして彼女が口を開いた。
「……どうして来なかったのじゃ?儂はずっと待っておったのに。仕組まれたことくらい分かるじゃろ!」
「…ごめんね。でもボクはアナタにあげられる物は何もないんだ。身分も地位も」
「身分など、力量に関係ない!儂は、おぬしがいい!」
彼女らしい言い分。ボクがいいと言ってくれた、それだけで十分報われた気がした。
「ここでそんな我儘を言っても、誰にもわかってもらえませんよ。仕組まれたことにせよ、アナタは四楓院家の大事な当主だ。家同士の結びつきは、家族だけじゃなくて部下を護るのにも大事なことっス」
彼女を諭しているんじゃない。自分にそう思い込ませて、暗示をかけている。
言われるのは怖くて嫌なのに、自分でそれを言うのか?
「ねぇ夜一サン――――、…終わりにしよう」
語尾が震えた。
彼女が息を飲む音が聞こえた。
その後、彼女は何も言わずに秘密基地を去った。彼女の後ろは追わなかった。
難儀な恋をしたモンだな。半身がもぎ取られるように痛い。
自分から告げたくせに、莫迦だな。
無言の慟哭が、世界に響く。
彼女の祝言は決まった。
三日後、四楓院家で。
それがいよいよ明日に迫った日の夜、ボクは隊舎に居た。
ご老臣達は、ボクをできるだけ彼女に近寄らせないようにしていた。
今日は飲んでも酔えない。転がる銚子の数だけ増えていく。
酒に呑まれて、何もかも忘れたいのに。
見上げた月は、黒い雲に飲み込まれる間際だった。
後ろからそっと近付いた気配に、心臓が跳ねた。体に染み付いた彼女の霊圧。
「喜助…、随分飲んでおるようじゃの。儂への祝い酒か?」
寂しげな声で、そんな皮肉言わないでよ。抱きたくて堪らなくなる。
「振り向いてもくれぬのか?」
何も言えなかった。突き放すような冷たい言葉も。一時の夢を与えられるような甘い声も。
そうっと背中を辿る指先が、急にボクの体に絡みついた。
あぁ、アナタがボクを殺してくれればいいのに…!
「嫌じゃ、嫁ぎとうない!おぬしだけじゃ、喜助…、喜助…!」
名を呼ばれた途端、ボクの視界は白くホワイトアウトした。
気が付くと、彼女の唇を貪る様に吸い、畳に組み伏せていた。
全身が彼女を求めて動いた。彼女の甘く切ない声が響いて、ボクを夢中にさせる!
「儂を攫ってくれ。儂は全て捨てる。おぬしに儂をやるから…だから―――――」
死んだはずの心がボクを奮わせた。
その夜、四楓院夜一と浦原喜助は姿を消した。
結局婚姻は破棄となったそうだ。色々大変だったらしいけれど、そんな騒動も構うことなく、ボクと彼女は双極の丘の秘密基地に居た。
霊圧を遮断する布に二人で包まって、罪悪感なんてそっちのけで肌を寄せ合った。
「祝言すっぽかしちゃって…、きっと今頃大騒動っスね」
「よい。儂はもうただの女子じゃ…。当主じゃない儂は好かぬか?」
彼女の肩を抱きなおして、腕に閉じ込める。
「いいえ。でも結局…当主でも何でもいい。アナタがボクの側に居てくれるなら」
「喜助……」
そして抱き締めあったまま、眠りについた。
ボク達はどこまでも、どこまでも道を繋いで進む。
それが、屍を踏み越えるような血塗られた修羅の道でも、アナタが隣に居ればボクは笑って歩いていける。手を繋いで、ずっと一緒に。
<終>