ずっと、自分の気持ちに蓋をしたまま、ぬるま湯のような環境に浸っていたかった。
恋や愛なんて、他人のを見聞きして“しょーもな!”と言って笑い飛ばすだけで、自分をその中に置きたくなかった。
気持ちを揺さぶられるのは好かない。それに対処する術も持たない。
でもそれは、忍び寄るように、自分の日常にも及んでいた。
「本気で言うてんの、ソレ?」
「当り前やろ。ええか、今は茶化すな。茶化した時点でお持ち帰りするで」
「なんやそれ!ウチが黙ってお持ち帰りされる…」
シンジの長い指が言葉を遮った。一度伏した目が、もう一度真っ直ぐに自分を見る。
「オレかてこういうのあんま言わへんから、余裕ないんや。せやから茶化さんとしっかり考えてんか」
培ってきた関係の呼び方が変わる。それだけでも意識してしまって、これまで以上に素直になれないだろうことは自分が十分承知している。
そっとしといて欲しかった。優しいぬるま湯のまま―――。
告げられた甘い言葉。指に軽く触れてきたその手が、そのまま力強く握られた。
突然の事に驚いたけど、無言のまま振り解かなかった。いいや、体が固まってしまって動けなかった。返す言葉も浮かばない。
赤く暮れる夕日の中、しばし動けずにいる。
夕日の中で良かった。染まった顔を見られるのは、もっと気恥ずかしいから。
“こんなんで照れとるなんて、ガキやなぁ”
いつもはそう言うくせに、今に限って何でなんも言わんの。
指先から伝わるアイツの熱に、言葉を待つアイツの姿勢に、逃げ道はないと知らされる。
風だけが二人の間をするりと抜けて、草原の草花を揺らしていく。
沈黙のまま、どれだけ時間が過ぎただろう。
わななく唇をようやく動かして出た言葉は、他人の声みたいだった。
「…次の、次の任務が終わるまで、待って…」
シンジは急かさなかった。
“ええよ”と短く言うと、最後にまた少し握った手に力を込めた。
「ええ答え、待っとる」
それだけ言うと、風のようにするりと自分の前から通り過ぎて行った。
その夜からどうしたものかと、同じ思考が過ぎっては消え、また過ぎる。
堂々巡りの思考と、自分らしくない気持ちに枕を引き千切りそうになる。
明日が任務でよかった。きっと少し気分転換になる。
任務の事だけ考えていられる。
任務はほんの二日で片付いた。それでも、幾分すっきりした気がする。
報告書を出しに喜助を探す。
「あ!ひよ里サン、お帰りなさいっス!」
すっかり研究室のような出で立ちに染められた隊首室では、いつものようにのほほんと喜助が迎える。
その長い指には張り付いて取れないんじゃないかと思うくらい、いつも試験管を持っているのだが、今日は違った。代わりにほわりと湯気を波立たせた湯のみを持っている。
そう、客が居るのだ。それも今は会いたくない客が。
「おう、ご苦労さん。邪魔しとるで」
その声を聞くだけで、心臓がドクンと強く脈打つ。喚いて茶化してしまえば気が楽になるはずなのに、思うように声が出ない。
「…何しとるん、こんなとこで油うって。自分とこの仕事はええんか」
「今日はもう片付けたんですー。最近よう仕事がはかどるんや」
そんな笑顔でこっちを見るな。
指先が冷たくなって、でも体の中心はマグマのように熱くなる。
この場所に居たくない。逃げ出したい。
「あっそ。喜助、これ報告書な。ここ置いとくで」
「ひよ里サンも一緒にお茶いかがです?」
「や、ええわ。ウチちょっと出てくる」
喜助の返事も聴かず、襖に手をかけた。足音そのままに駆け出してしまった。
目指す場所なんてない。けれど、駆け出した足を止めることも出来なかった。
何も悪いことしてへんのに、この胸のもやもやはなんや!
それもこれも全部シンジのせいだ。このがしんたれ!
そう悪態をついても、何の解決にもならない。
解決するためには自分が答えを出すしかないのだ。
片膝を抱えて座ると、弾んでいた息が落ち着く。
群青色に染まる空に溜息が消える。
シンジが嫌いなわけではない。いやむしろ好きな方だ。何が嫌なわけでもない。
ただ、自分が自分じゃなくなりそうな不安感。ただそれだけだった。
「ドツボに嵌って、シンジが浮気したら、“殺したる!”言うて瀞霊廷内を追い掛け回すんかな…。ハハ、ウチがそんなキャラかいな」
「浮気なんてせぇへんがな。オマエだけで手一杯やっちゅーに」
突然上から声がした。
座っているひよ里の背後に立ち、上から覗き込むのは思案の相手だった。
「なんやねん!いつから居ったんや!」
驚いて、反射的に対面するように向きあう。
シンジは羽織に腕を隠したまま、大仰に空を見上げた。
「つい今しがたや。背中がら空きやったで。もうちょい気付けんと、女の子なんやし」
「うっさいわ、ハゲ!誰のせいやと思っとるん!」
売り言葉に買い言葉。いつもの二人のようで、少し調子が戻る。
だがそれも一瞬で、シンジが屈んでひよ里に視線を合わせると、この前のような真っ直ぐな瞳でひよ里を見た。
「オレやろ。せやからホレ、こうして答え聞きに来たんや」
途端に口を噤んで、俯いてしまう。どう答えていいか分からない。
「しゃあない奴っちゃのー。ええか、これからいくつか聞くから、頷くか首を振って答え」
地面の草を見たままの視線で、ツインテールの金髪が小さな頭と共に揺れた。
「で、オレのこと、嫌いなんか?」
ふるふると頭を振る。一番の心配が消えて、シンジもほっとする。
「オレと付き合うんは、吐き気するほど嫌か?」
少し間があったが、また首は横に振られた。
「じゃあ、問題ないんちゃう?オレと付き合うて?」
ひよ里はまたピタリと動かなくなってしまった。
「何の不安があるん?言うとくけど、そない短期間にオマエ襲おうなんて考えてへんからな」
ひよ里は膝を抱えて、その膝に顔を埋めるように小さい体を更に小さく丸めてしまった。
シンジが困って頭を掻き、何か言おうと口を開いた時、ひよ里が小さな声を発した。
「ウチが…、…ウチでなくなる、ような気がすんねん…!」
長い金髪の影でシンジはそっと口元を綻ばせた。
彼女の懸念がシンジの恐れてた最悪の答えではないようだ。
「ええか、ひよ里。絶対そんなことあらへんで。オマエはオマエや。証拠見したろか?」
ひよ里が怪訝な顔でシンジの方を向くと、するりと音もなく骨ばった大きな手がひよ里の両頬をやんわりと挟んだ。
「シンジ、なんの…」
言葉は、重ねられた唇に遮られた。
力強く押し付けられる唇がシンジのそれだと気付いた途端、沸き上がる甘い感情とざわめき。
それでも気恥ずかしくて、体を捩る。
離してくれない彼のわき腹にひよ里の拳が入る寸前、頬を挟んでいたはずの彼の掌がそれを止めた。
「な?ちゅーしてても、オマエはこうして殴ってきよる。凶暴なオマエが乙女のように静かになんてなれへん。オマエは変われへんっちゅーこっちゃ」
したり顔で説教する男に、ふつふつと怒りが沸く。
可愛らしい耳たぶまで真っ赤に染めて、わなわなと全身を震わせるひよ里は、きつく拳を握り締めた。
「何がちゅーや!何がオマエは変われへんや!このがしんたれェ!!」
掴みかかる勢いでひよ里が立ち上がると、シンジも応じる。
「せやせや、調子戻ったやん。猿は悩んでないで、キーキー言うてりゃええ」
「オマエが言うな!オマエのせいでこないに悩んどったんや!このドアホ!」
「オレは、正直に自分の気持ち言うただけやもん。グチグチ悩みよったんはオマエ自身のせいじゃ、ボケ。悔しかったら、好きて言うてみィ。弱虫のオマエにゃ言えへんと思うけどな!」
ひよ里は完全に頭に血が上った。
「ああ、言うたる!そんなんウチにだって言えるわ!ええか、よぉーく聞きや!オマエが好きや!スキで好きでしょうがあらへんわ!付き合えるもんなら、付き合うてみ…」
はた、と正気に返った。が、時既に遅し。
憎らしいほど満面の笑みを浮かべた長身の男が、してやったりと呟く声まで聞こえた。
「なんや、もったい付けよってからに。これでオレら付き合うこと決定な!これからも宜しゅうな、ひよ里!」
じゃ、また明日!と逃げるように瞬歩で姿を消した。
残されたひよ里は、内から沸き上がる怒りに辺り一帯に聞こえるほどの声を出した。
「こ…っ、こんのハゲシンジーーーー!!覚えとけーーーー!!」
<終>
シンジはいつも以上ににやにやしながら帰って、藍染に気持ち悪がられるといい。
ひよ里は帰って喜助に散々八つ当たると尚いい。八つ当たられた喜助は更に夜一サンのところに泣きつけば更にいい。