・化学室・

  初夏の爽やかな風は教室のカーテンを揺らして、放課後のざわめきにささやかな清涼を与えた。

 喜助が化学室の窓から見上げた空には、青空の中に薄く浮かび上がる白い月の影。
 そのままグラウンドを見遣ると、褐色の肌に汗を浮かべて颯爽と走る生徒会長の姿を見つけた。
 陸上部のエースで、インターハイの常連。家は貴族の流れを組む金持ちでお嬢様。そのくせ快活な性格で生徒会長まで務めるだなんて、まったく神様というのは不公平だ。
「ボクは化学薬品の匂いが立ち込める部屋の中、周囲にはなかなか理解してもらえない実験だの研究だのをしてるのに…」
 不平染みた溜息を吐いて見せても、ここには喜助しかいないから誰にも気にしてさえもらえない。
“君のしている研究を君以外の高校生に分れと言うのが酷だよ”と先生は言ってたけど、喜助にとっては周囲がなぜ分からないかの方が分からなかった。
 彼はいつも奇人変人扱いだったが、明晰な頭脳とユルい性格で人当たりは良かったからテスト前になると、いつも彼は人気者になる。
 教え方も上手いから、隠れた信者も多いけれど、面倒そうな事になるといつものらりくらりとかわしてしまうのだ。
 あぁ、そろそろ中間か。
 そんな事を思い出しつつ、肩肘をついて彼女を見続けた。
 彼女はこちらを見ない。気付きもしない。
 彼女はボクの知らない世界で笑っていた。
 鮮やかで眩しい、太陽の様な笑顔で。
 
 
 翌日の昼休み。生徒会室に所用で訪れた夜一は、同じく生徒会の猿柿ひよ里と今後の文化祭についていくつかの確認をしていた。ひよ里にくっついてきた平子は夜一と同じクラスで、割とよく話す。
「なぁ会長ーっ、浦原喜助と幼馴染なんやろ?中間の山聞き出してぇなー」
「うるさいぞ!大体直接喜助に聞けばよかろ?何故儂に聞くのじゃ!」
「アレ…?何や付きおうてるンちゃうの?彼女やから勉強教えてもろてるんだと思てたわ」
 夜一は目を丸くしてそんな関係じゃない、とだけ言うと生徒会室から出て行った。
 
「えー、違かってん、ほなオレどないしたらエエんやろ?!オレ生徒会でもないしクラスも違うからえらい聞きにくいわー」
「オマエが人見知りするタイプか、ハゲが!」
「あ、ひよ里、オマエ同じクラスやったよな!聞き出してこい!」
「ウチに命令すんな!自分で行き!」
 
 賑やかな声を後に、苦々しい思いを抱えたまま階段を降りて行くとその本人とすれ違った。
 互いに何も言わない。挨拶すらない。
 ただすれ違う瞬間に手渡された紙切れには、走り書きで“今日部室に来て”とだけ書いてあった。
 ただそれだけで、夜一は一気に緊張した。
 振り返った時には彼はもう角を曲がっていて姿は見えなかった。
 手に握られた紙切れが、心を同じ音をたててクシャッと歪んだ。
 
 
 その日もいつもの放課後のはずだった。
 授業を終え、部活に勤しみ、皆で笑って寄り道しながら帰る。
 そのはずだった。
「あれっ先輩、帰らないんですか?」
「うむ、今日は生徒会の仕事があっての。気にせず先帰って良いぞ」
 何の疑問も抱かず口々に挨拶を告げて去っていく部員を見送りながら、夜一は落ち着かなかった。
 
 ほとんどの生徒が帰宅した誰もいない校舎。
 教員もおそらく数えるほどしか残ってはいまい。
 巡回に来る警備までの時間は引き継ぎも合わせて、これからまだ3時間もある。
 
 化学室へと向かう夜一の歩みは、部活で見せるものとは真逆に精彩を欠いていた。
 これからされることなど分かりきっていて、どうしても躊躇わざるを得ない。
 しかし、こんな緩い歩みでもいつかは目的地についてしまう。
 このまま引き返そう、と何度も思っても、彼の言葉を無視できない理由がある。それは、未だ彼女の自由を蝕み続ける。
 照明の消えたひっそりとした化学室の前、辺りを見回し人影がない事をしっかり確認すると、カラリと扉を開けた。
 彼は窓辺にいた。
 満天の星空をバックに、夜一を見て微笑んでいた。
「ようやく来た。待ちくたびれたっスよ」
「……済まぬ…」
 言い淀んで、夜一はそっと俯いた。
 彼の前では、明朗快活な彼女はどこか憂いを帯びた女性の顔になる。
「こっち来てよ」
 脚が床に張り付いたかのように動けないでいると、喜助の方から近付いてきた。
「ねぇ、何期待してるんスか?やらしいなぁ…。ボクはただ部室に来て・ってお願いしただけじゃないっスか」
 屈むように覗きこまれた視線と、囁かれた声に過剰に反応してしまう。
「期待しているわけではない!」
 夜一の唇にそっと人差し指が当てられ、シィ、と窘められた。()
 彼女の肩に喜助の大きな掌が置かれ、距離を詰められる。
「静かに。…夜一お嬢様」
 夜一はぐっと口を噤んだ。
「ねぇ、もう濡れてる。学校でするのクセになっちゃった?いけない生徒会長サンっスねぇ」
 明らかにからかわれているのに、彼女は反論しなかった。彼の手が既に身体のラインをなぞっていたから。そう、明白な意図を持って。
 反論したとして、これからのことを止められはしない。期待しているのは喜助の方なのだから。
 
 
 …どんな口を叩こうが丸めこまれてしまうのだから。
 
 実験台の上に座らされて、脚の間に喜助の身体がねじ込まれる。
 白いワイシャツのボタンが外されていくと同時に、唇を吸われた。
 触れ合わせるなんて優しいものじゃない。
 角度を変えて、粘膜を触れ合わせるような口付け。
 首筋に舌を這わせ舐め降りると、露わになった胸に顔を埋めた。
 すると、夜一をきつく抱きしめたまま、喜助の動きが止まった。
 
「…?…」
 彼女が戸惑っていると、喜助は大きく深呼吸した。
「あぁ…アナタの汗の匂いがする。…今日も見てたっスよ、走るとこ。本当、楽しそうに走ってて、笑ってて、キラキラしてた」
 夜一は、胸元に顔を埋めたままの喜助にそっと触れた。
「…沢山の男子がアナタを見てた。同じ陸部のやつらも、野球部もサッカー部も、何度も何度もアナタを見てた」
 喜助は顔をあげて、夜一と視線を合わせた。
「きっとアナタと、こういうコトしたい・って思ってるんスね。…ハハ、ざまぁみろ」
 抱きしめていた腕はいつの間にか脚に伸びて、短い制服のスカートの中に入り込んだ。
 今の口ぶり、まるで嫉妬しているみたいだ。
 少しでも儂を想ってくれているのか?
 聞きたい問いはそのまま口唇ごと封じ込められた。
 ただの思春期に芽生えた欲求に、手近にいたからというのは嘘であってほしい。
 
(儂は、ずっとおぬしを想ってきたから…、だからこうして…)
 
 引きずり降ろされる様に、床に四つん這いにさせられると、前戯もそうそうに後ろから喜助が入ってきた。
 甘い喘ぎを噛み殺すように、ワイシャツの袖を噛んで耐える。
 喜助の動きと合わせて身体は揺れた。
 
 しばらくすると、鞄の中で携帯のバイブが鳴った。
 ああ、きっと迎えの電話だ。
 なかなか校舎から出てこない儂に宛てた物。
 きっと怪しんでいる。
 もしかしたら職員に掛け合って、探している最中かもしれない。
 それでも止まらない。
 何度も何度も繰り返されるバイブレーション。
 何度も何度も繰り返される卑猥な腰つき。
 
 あぁ、明日ここで授業なんて受けられない。
 喜助の熱を思い出してしまうから。
 ―――――でも、喜助にも思い出してほしい。ここで、何をしていたか、を。
 
 誰を、抱いていたかを。
 
 喜助が笑ったような気がした途端、夜一の身体が何度もケイレンのように震えた。
 
 
 
「おはよーさん、夜一。なぁ化学の宿題やってきてる?だったら、ちょお見せてー…って白紙やん。なんや、珍しなぁ。オマエでも忘れることあんねや」
 夜一は忘れたわけではなかった。
 化学の教科書を開くたび、実験室を思うたび、喜助とのことを思い出してしまい、手に付かなかったのだ。こうしてこの化学室にいるのも恥ずかしくてたまらない。けれど、昨日の喜助は他の男子にヤキモチやいていたっぽくて、それが今も顔がにやけるほど嬉しかった。
 
 
 放課後、今日も喜助はこの化学室で実験をしていた。今日は顧問の先生もいる。
「あ、浦原君。先生ちょっと職員会議行ってくるからね。続きは分かるね?」
「あぁ、ハイ。大丈夫っス」
 初老の先生を見送って、そのままグラウンドの方に目をやると、今日も彼女は走っていた。
 走り終わって、折った身体を起き上がらせた時、二人の視線はぶつかった。
 そのまますぐに視線を外してしまったけれど、その顔は夕日以上に赤かった。
 
 その顔に満足そうに微笑むと、再び作業に戻った。
  
 <終>
 
 注:互いに片思いです!なのにやっちまってます。Cから始まっちゃった感じです。意外と甘くなってしまった。