ひぐらしが切なげな声をあげて、命を謳っている。
肌を湿らす暑さはちっとも引かず、温い風は慰めにもならない。
見上げた遠い空は、真っ赤な夕日をかざして、影の背を大きく引き伸ばしていった。
あたしの影も、あたしの胸中に蠢く影も。大きく、長く。
一本の黒い線のように。
夏の影
「たいちょーお、あたしもう上がっていいですかぁ?今夜これから用事があるんです」
「松本、自分の仕事終えてるから言ってるんだよな?」
「えー、そんなのもちろんですよぅ。ちょっと残ってるのもあるけど、明日必ずやるんで!ホラホラ、これ証拠ですってば!そんな胡散臭そうな目で見ないでくださいよぅ」
ドサ、と日番谷の机に置かれた書類には、一応副隊長としての仕事の痕跡が見られた。
(珍しいな…。明日は雨、いや雪か…?)
と驚くほどの珍事に、日番谷も目を丸くした。
そうして定時になる前に、乱菊は十番隊隊舎を後にした。
「あれ、乱菊。えらい早いやないの。抜け出してきたん?悪い子やなぁ」
「そんな事しないわよ。堂々と仕事を終わらせて、隊長に許可もらって来たんだから!ギンこそ早すぎ!抜け出したんでしょ?きっと今頃イヅル泣いてるわよ」
「ボクは優秀な副隊長を持つ隊長やからええの。でも乱菊が仕事終わらせて来るなんて、明日は雨降らはるわ」
「ちょっと!どういうこと?!あたしだって(たまには)ちゃんと仕事するのよ!」
「んー、まぁ…そういうことにしとこか」
確信犯的な微笑みを見合わせて二人は並んで歩きだした。
二人は現世の海に居た。
誰もいない海岸線をゆっくり歩いている。
乱菊はギンの横に並んで、彼の存在をそっと肌で感じ安らぎを得る。
なのに、どことなく感じる温度差に乱菊はいつも心乱される。
「最近、ずっとどこいってたのよ?まぁ、あんたがふらっと何処かいっちゃうのはいつもだけど。近頃、なんか変よ」
会いに行ってもいない。
ねぇ、会いたかったの。ずっと。離れていても、あんたとあたしは繋がってる。そう思っていたの。それでも、なぜか振り払えない影。
「そ?いつもと同じやん」
何の表情も変えること無い男の横顔をみていた。
「ギン、あんた海みたい」
広くて、大きくて、近寄ったと思ったらずっとずっと遠ざかる。
昼間の顔は透明で穏やかに見せて、夜の顔は窺い知れない深い闇を孕んでる。
あんたに触れても、指の隙間からするりとすり抜けて行く癖に、あたしの身体を濡らしていく。
「なんや、唐突やね」
少し此方を見て優しい声で訊ねるくせに、何も聞こうとしない。
ねぇ、何を考えてるの?
あんたはあたしに言えない何を隠しているの?
「ねぇ、ギン。教えてよ。あたしに何を隠しているの?」
「何も隠してへんよ。乱菊に隠せるものなんて、なんもあらへんよ」
嘘吐き。
そう言って、何度も闇に紛れてどこかに行ってしまうんじゃない。
繋ぎとめておけない上に、その術がないなんて。
あたしはずっと近くにいたはずなのに。
そのくせあたしに優しくするから、あたしは真っ赤な夕日に照らされた様に、想いを朱に染めるのよ。
でもその後ろには、黒い魔手が伸びている。
消せない闇。
あんたの横顔を見ていると、不安になる。
いつか…あたしの指をすり抜けたまま、遠い処に行ってしまいそうで。
さざめく波に取り残された様に、遠く。遠く。
「乱菊」
思考に沈んだあたしを呼び戻した声は、差し出された掌にようやく焦点があうと彼の意図を推し量った。
いつまでも動かないあたしに焦れたギンが差し出した手を引っ込めて、代りにきつく抱きしめた。
鼻孔に馴染んだ匂いがするのを胸一杯吸い込んで、ギンの熱に身体を添わせた。
まどろむような心地良さに自然と深い息をつき、腕を回した。
「何も隠してへんよ。何も…」
嘘なのに、どうしてこんなに甘く響くの?
嘘でもいいからそれを信じていたかった。
そうして盲目的に気持ちを捧げていられたら良かったのに。
いずれ何かが起こりそうな予感を胸に残し、あたしは刹那の夢に溺れた。
<終>
一護がソウルソサエティに行く前の話。
素材:sozai空間