触れ合う距離

 

ある季節の、ある日の夜。
 
 
 
ここは五番隊の隊主室。
普段なら、書類を抱えて畏まって入る半分公の場だが、今夜は違った。
隊主室には、部屋の主ともう一人。金髪ツインテールの女の子がそれぞれ思い思いに本を広げていた。
 
 
 
触れ合う距離
 
 
 
 
『二人きりで過ごす』というのにも大分慣れてきたと思う。
こうやって、非番の日に二人で同じ部屋にいるのも、息苦しさが以前より和らいだ。
多少くっつかれても、前ほど跳ねあがる様な過剰反応もしなくなった事にひよ里はこっそりと頷いた。
(うん、うちも成長したわ)
 長座布団の上に寝転がって本を読んでいるシンジを盗み見て、ひよ里は一人満足げににんまりと笑った。
 
 
このままこうしておってもええかな、と思えるようになったのは確かに立派な進歩だが、その裏で、シンジが別の意味で焦れているのを彼女は知らない。
今も落ちつかなげに、本のページをめくる。内容なんて頭に入るわけがない。彼も横目で、壁に背を預けたひよ里を幾度となくちらちら見る。
 
何故か上機嫌な彼女の顔は、誰にも見せたくない程可愛いらしく、胸がきゅんとする。
(アッ…アホか!きゅんて何やきゅん…て!恋愛経験ゼロの小猿よか経験あんねんぞ!あいつがにこにこしてるだけで、何やっちゅーねん…!)
 
そう自戒して、横目で伺うようにひよ里の方を見遣ると、今度ははたと目が合った。
 
少し照れたようにはにかむ笑顔を浮かべた彼女は、確かにこの関係にも大分慣れてきたらしい。
しかし、その微笑は焦れたシンジの網膜を通って、直接脳に入り込んできた。
心臓を貫かれる位、どきゅんと疼いた胸に、シンジの頬が知らずに紅潮する。
思春期の男の子のような反応に、自分で嫌気がさす。
 
逆に余裕あるよう見える彼女が、なんとなくムカつく。彼女にそんなつもりがないことは百も承知。ただ、気持ちの置き場がないのだ。
ひよ里が至近距離に慣れて行くのと反対に、シンジの余裕はバラバラと崩れ去っていく。
(そや、あいつが調子に乗らんようにここいらで、釘さしといたろ!)
悪戯っ子のような目をして、本の影でにやりと大きな口が弧を描く。
 
 
「なァ、ひよ里。最近オレら結構仲良しさんや思わへん?」
おもむろに近づき、彼女の肩を抱いてみる。ひよ里は怒らなかった。むしろ、目をきらりと輝かせて、顔を朱に染めた。
「そっ、そか!。シンジもそう思うてたんか!実はウチもな、アンタと居るのに結構慣れてきてん」
ちょっと照れたように伏し目がちな表情で言われて、シンジは鼻の奥がツンとした。
(あっ…アカン!鼻血出そ!)
肩を抱いた腕とは反対の方で、興奮した手で鼻をつまんだ。
 
 
恥ずかしそうに下を向いたひよ里はそれに気付かず、二人でいることに慣れてきた最近の心境の変化を楽しげに話していた。
適当な相槌で返していたシンジは、ムラムラと心の底で渦巻く炎を感じてた。
 
 
(あかんあかん!ちょお落ち着け自分!こないな色気ない小猿にどないしてん!)
シンジの動揺にもさっぱり気付かず、ひよ里は頬を染めて話し続ける。
「でな、ウチらて結構ええコンビやん?こうやって自然におれるっちゅーのは、ウチも安心で…。……って、シンジ、聞いとる?」
 
 
外し続けた視線を、無垢な瞳が追いかけてきた。
その伺い顔が、まるで星のようにキラキラと煌いて見えた。
輝く瞳から、ちょっと下を見ると艶やかな唇に視線が落ちる。
何度も重ねてきた唇の誘惑に、大人ぶった余裕がバキンと音をたてて壊れた。
「ひよ里…!」
「うわ!何や!…ふ、むぐっ…!」
唐突に抱きつき、強引に唇を奪った。
 
小さな体が急激に強張っていくのも無視して、シンジは何度も唇を重ねては、角度を変えて貪る。
シンジの長い舌が、小ぶりな口唇を割って彼女の八重歯をなぞると、じたばたしていた四肢が急に大人しくなった。
固まってしまった小さな体躯を、それでもぎゅっと抱きしめたままで、脳裏では理性と本性が論闘していた。
けれど、きゅんと疼く胸の痛みがどんどん強くなって、大きく脈打つのだ。触れたい、と体が叫ぶ。
 
(顔見たら負けや!きっとブチ切れてるか、泣きそうかどっちかや!)
 
今、ひよ里の顔を見るわけにはいかない。
見たら最後。すごすごと引き下がるしかない。強引に事を進めることは出来ない。自分を無理矢理抑え込んででも、大切にしたいヒトになってしまったのだ。
けれどもし引いてしまえば、また悶々とする日々に戻るしかないと分かっている。
一歩、前に進みたい。もっと触れ合いたいと思うのは、自然なことだろう。
ましてや職業柄、いつ命を失うともしれない、と考えてしまうといよいよ欲求ははち切れそうなくらい膨らんだ。
 
 
 
勢いに呑まれたなら、もうこのまま突き進むしかない!
そのままシンジの手がひよ里の着物の袂に忍び込み、首筋に唇をスライドさせた。
彼女が息を飲んだのが分かった。
ブチ切れていたのなら、この時点で鉄拳が飛んで来る。ハズ。
 
…なのに、来ない。
 
(じゃあ、泣いてるに決まっとるやんけ!ええか、オレ!絶対目ぇ開けんな!ここからおれらの新しい関係が始まるんや!)
なのに、脳裏に浮かぶのは可愛いヒトの泣き顔。口では辛辣な物言いをしても、心の奥底は純情なヒトなのだ。
 
一瞬の葛藤の後、微かに開けてみた目で見たひよ里の顔は、ぎゅっと固く目を瞑っていただけだった。
泣いてなどいなかったのだ。
 
それが意外で、動きを止めてしまった。
すると今度は、ひよ里が薄眼をあけてシンジを伺った。
「…ひよ里…、オマエ何で怒ったり喚いたりせえへんの?」
「……おっ、女の口から言わせるんか!この外道!」
キョトンとしたままの顔で怒鳴られると、ようやくシンジはぷっと吹き出した。
「なん、なん…!何が可笑しいんや!」
からかわれたと勘違いして、ひよ里は眦をきりりと上げる。
 
「や、堪忍してや。勝手にコト進めたら、泣きよるんとちゃうかと思て確認してん」
「いきなり襲っといて随分勝手やな!今からでも泣いたり喚いたりしたろか?!」
シンジは唇に弧を描いてまたぎゅっとひよ里を抱き締めた。
 
「うん、やっぱりもっかい確認さして。ひよ里、…オレともうちょい仲良うなろ?」
ひよ里は、照れた顔で唇を尖らせた。
「……こない背中痛いとこは嫌やからな。あと、これ以上こっちもよう見んと自分勝手なことしたら、…しばくで」
シンジはくしゃくしゃな笑顔を浮かべて、全身真っ赤なひよ里を抱え上げた。
「よっしゃ、任せとき!」
体重の軽い彼女を小脇に抱え、二人はシンジの自室の奥へ歩みを進める。
「こっ…、ここはお姫様だっこするとこやろ!!何で米俵みたいにかかえとんねん!」
「えーからえーから」
 
「何も良くないわ!」
「ほな、お姫様。これからたっぷりとご奉仕したるから、それで堪忍したって。オレかて胸ざわついてて、一杯一杯なんやさかい」
 
ひよ里が見上げたシンジの顔は、いつもの余裕綽綽な顔ではなく、照れたような気まずいような顔をしていた。
優しく布団に下ろされて、まじまじと顔をみると、彼は片手で顔を覆うように逸らした。
「ちょお、あんま見んといてや。好いた女に余裕ない男やって思われたないんや」
 
 
 
 
「せやから、さっき言うたやろ。こっち見んと勝手な事するな、て。 …ちゃんとウチの方、見て」
零れる様な小さな呟きにはっとして、真っ赤に染まった顔を見た。
そして、知った。
彼女はちゃんと、向かい合ってくれている。
照れた上目遣いのまま、本音も零す。
 
「言うとくけど、ウチのが怖いんやからな!」
 
憎まれ口がこんなにも愛しいなんて。
 
先にシンジが笑った。そしてそれにつられる様にひよ里の顔も緩んだ。
互いにくしゃくしゃに笑いあってじゃれたと思ったら、瞬きの次には瞳が真剣さを増して、互いを見つめた。
 
指がなぞる輪郭。
触れ合う熱がその温度を上げて、皮膚の上を滑る。
その先に、言葉はもう無かった。
繋がれた手が、きつく、きつく結びあった。
 
 
<終>
…私が照れる…。なんだ、この純愛カポー。