なぜ、物分りのいい振りをしてしまったのだろう。
肺が千切れたように息もできないくらい、苦しいのに。
瞼を散々腫らして、頬に涙の跡が残る。悲鳴のような嗚咽を零しても時間は戻せない。
あぁ。彼の、彼だけの為に生きていたかった。
それが叶わぬことと知っていながら、禁じられた恋は甘く鋭い棘をもってして、いつまでも裸の心を刺し続ける。
切ない。せつない。
会いたくてたまらない。その姿を、その声を、存在を、感じるだけでいい。
あぁ、だからお願い、喜助のそばへ行かせて。
ずっと隣にいたはずなのに。
刺された棘からじわじわと血が滲むように、空虚な隣を見ては冷えびえとした寂しさが募る。
上手く息ができない。安らかで自然な呼吸を忘れてしまった。
夢遊病者のように、彼の姿形だけを探す虚ろな人形になる。
彼に触れたい。
あぁ、こんなに苦しいのなら、もうこの命を消して。
二度と彼の微笑みを思い出さないように、記憶を消して。
―――――喜助に触れたい。
「恋」
あれは夏も終わりの頃だった。
幼馴染、親友でずっと隣にいた喜助に突然告げられた言葉。
「ボク…彼女が出来たんス」
最初はその言葉の重みなど全く分からなくて、素直に祝福した。
恋などその時の自分には分からなかった。男女が好き合うだけの事。政略的な結婚が決まっている自分には縁がないと思っていた。
「それは目出度いの!どこの誰じゃ?儂も知っておる女子か?」
「ええ、八番隊の隊士です。京楽サンのところで知り合って…。何度か会う内に彼女が、ボクを好いてくれたみたいです。アナタも以前に感じ良い子だと言ってたヒトっス」
嬉しい報告のはずなのに、静かに淡々と語る喜助に違和感を感じた。
けれど、親友の初めての恋愛話に自分の方が浮き足だってしまった。
「そうか!顔はうっすらとしか思い出せないが、可愛い子だった記憶がある。ふふ、喜助も男だったのじゃな。ああいうのが好みだったとはな。大切にするのじゃぞ」
喜助も笑って、ええ、と応えた。その時の彼はさぞかし嬉しいのだろうと、勝手に決め付けて。
そして、時間が流れるほど二人で共に鍛錬する時間が徐々に減っていった。
一月も過ぎた頃か。今日もまた待ち合わせの刻限となった。
あの娘と過ごす時間が増えた喜助は済まなさそうに、でも逃げるように自分の許から駆けていった。
「なんじゃ、つまらぬ…」
急いで走る後ろ姿を見ながら、あの娘と過ごす喜助を初めて想像した途端、心臓が跳ねた。
ドン、と肩に重い鉛を積まれたような息苦しさ。
喜助の困ったように笑う顔も、優しい眼差しも、大きなてのひらも全部あの娘に向けられる。
(今まで、ずっと自分に向いていたのに)
そうだ。これからもっと、自分の知っている喜助はあの娘のものになる。
それが自然で、いい事のハズなのに。
なぜ、苦しい?
その夜、夕飯が喉を通らなかった。隠密機動の主として、体調管理は必須なのに。食べようとしても、思うだけで指が動かなかった。
早めに床に着いたのに、ほとんど眠れず朝を迎えた。
「夜一サン、顔色が良くないっスね。具合悪いんじゃないっスか?」
誰もわからない体調の変化を、隠しているつもりのそれを、なぜおぬしは容易く見破ってしまうのだ。泣きそうに歪みそうになる顔を見られたくなくて、視線を外した。
「大事ない。ただ少し眠れんかっただけじゃ」
そっけない態度になってしまった。喜助はどんな顔をして儂を見ているのだろう。
機嫌が悪いだけと思っているだろうか。
今までの儂らのバランスが、がたがたに崩れた気がした。
共にあっても、息苦しく他人行儀な遣り取り。
一緒に居たいのに、居たくない。
「やっぱり具合悪そうだから、今日の鍛錬はお休みしましょ」
伺うような声色でそっと肩を撫でた。
その手の大きさにはっと顔を上げると、喜助は困ったように笑っていた。
また、息が苦しい。
(嫌じゃ、あの娘のところに行くでない!)
そう喚いて、離れていくあの手を掴めたら、おぬしはどうしただろう。
彷徨った指先は固く握った拳の中に収まった。
それから二月が過ぎたが、儂の病は悪化する一方だった。
無理矢理口に入れ込む食事も、何を食べても味がしない。任務に疲れて帰っても眠れなかったり、朝起きると頬に涙の後が残っている。
儂はどうしてしまったのだろう。こんなこと今までなかったのに。
儂と喜助が会う時間はその頃既にほとんどなくなっていた。
数週間が過ぎたある任務の後、儂は急激な眩暈に倒れてしまったらしい。
気が付くと床にいた。
「おぉ、気が付いたか夜一。お前が倒れるなんて初めてじゃないのか」
「浮竹…?なぜ…」
「お前が倒れたところに偶然俺が居合わせてな。雨乾堂が近いからって運んできたんだ。卯ノ花にも診てもらって、体はなんともないそうだぞ。良かったな」
「あぁ…そうか…。儂は任務の後、倒れて…。全く、らしくないな」
ドタドタドタ、バン!
挨拶もなく雨乾堂の襖が開いた。
「おいおい、浦原。俺はいいとして夜一は女の子なんだから、一応声くらいかけろ」
「あ…、そうっスよね。すいません、ちょっと動揺してて…」
荒い息、濡れたくせっ毛から汗を滴らせ、喜助が立っていた。
久しぶりに見る喜助の顔。
体温と共に上がる、高揚感。
「いやぁ、仕方ないよ浮竹。夜一が倒れただなんて、ボクもびっくりなんだからさ」
後ろからのらりくらり現れた京楽が、立ち止まっていた喜助の背中を押して室内へと歩みを進める。
「おお、京楽。お前が浦原に知らせてくれたんだな」
「うん、丁度うちの隊に居たからさ。で夜一。本当、どうしたのさ?ちょっと元気がないかな、とは思っていたけど」
そうか、喜助は八番隊に居たのだな。当然、そうだろうな…。
途端に胃の奥に錘が増える。ジンジンと耳鳴りがする。
「ちょっと体調が悪かっただけだ。皆で大げさじゃの。さて、世話になったの浮竹。儂は帰る」
「あ、おい待て。もう少し休んで行けばいい。起きたばかりじゃないか、また倒れるかもしれないぞ!」
「そうだよ、夜一。雨も降ってるし」
「構わぬ」
笑って後ろを振り向かず立ち去った。
早く立ち去りたかった。喜助の前から。こんなざまを晒して、平気で居られるわけが無い。
追ってきた喜助の霊圧を振り切るように、更に走り抜けた。
こんな顔みせられない。けれど、捕まえてほしい―――…。
やはり本調子ではないようで、くらりとよろめいた体を受け止めたのは、やはり喜助だった。
大きな掌に抱かれる安心感。逞しくなった腕はもう幼い頃のものではない。
いつの間に手放してしまったのだろう。こんなにも求めていたのに。
「無理し過ぎっス。倒れたばかりなのに」
何も答えられなかった。ただ縋る様に、その死覇装を握り締めた。
雨に混じって、喜助の匂いがする。たった数ヶ月しか経っていないのに、何だか懐かしく、愛しい。
氷雨を避けるように木々の間に身を隠して、互いの熱で寒さを凌ぐ。
喜助は何も聞かなかった。儂も、何も言えなかった。
一言でも零せば、培った友情にひびを入る。そう確信していた。
ただ何も言わずに、雨が止むまで愛しい熱を感じていた。